壁を越えるもの | 天狼伝(アーカイブ) 天狼伝(アーカイブ)

壁を越えるもの

新しい環境、新しい生活。
何もかもが新鮮でぎこちなくも過ぎた一ヶ月。
伏村は「一匹狼」となった。

「一匹狼」と聞いて孤高の存在を思い浮かべる者もいるだろう。
だが、あくまで僕の話す「一匹狼」はまさにその文字通りの意味を表す。
それは生まれ育った群れを出て、自分の力で生きる、「自立」の意だ。
通常の生物ならそれは従来の群れから新たな群れを形成するまでの一時的な生命の一形態に過ぎないのである。
…おそらく僕は生物的な意味で新たな群れを形成することはないだろうが。
Anyway、僕は一人暮らしを始めた。もう一ヶ月ちょっとはこの生活をしている。
最初は親のスネを齧りまくっていた僕が、金銭的なこと以外で自分を明日へと生かさなければならないという状況に、どうやらうまく適応できてきたようだ。

さて、新生活とともに僕の人生は新たな1ページを綴り始める。
「天狼伝記」内では「学生ウルフガイ」として記録していこうと思う。
(つまらぬ洒落であるが、大学のことである。念のため)
それこそいくらでもこのジャンルで書く内容はあったのだが、新たな環境への適応に疲れたのかどうにもPCと向き合う時間を作ることができていなかった。
最低でも月1のペースで新たな物語を綴ることができれば、と思う。


では本題へ入ろう。
それまで僕は、というか今でもそうなのだが、人間関係において悩むことが多い。
人生の中で睡眠と悩む時間が同じなのではないか、と思うほどに長い。
ここでそんな煩わしさとは無縁の「リア充」ではないことを、その気性が物語っている。
学内にて。案の定僕は新たな人間関係、コミュニティを築けずにいた。
頭の中ではいくら理解していても、嗚呼悲しいかな、「ヘタレ」である僕はTwitter上での威勢は消えかけの線香花火のように萎み、消えかけるのであった。

そんな僕が取る最終手段。それは「共通の友人の友人へ手を伸ばしてみる」ことである。
『そんなに友人が欲しいのか』と問われれば、別段必要だとは思っていない。
だが、仮にその限られた人々の中に似たような感性を持ち、価値観を共有できるような人がいれば、やはりその者とは仲良くなりたい、というのが僕の本音である。

そして結論から言うならば、僕は牛歩ながらもそのコミュニティを広げつつある。
実のところ、僕には「男友達」というのが身近にいなかったのである。
確かに少数ながらも男友達はいるのだが、そういった人は現在は遠くに住んでいたりSNS上の知り合いでしかなかったのだ。
そうでなくても割合としては女友達の方が格段に多い。
こう聞くと女ったらしのように見えるだろうが、決してそんなことはない。
単に女性と仲良くなる機会の方が多いだけ、と言えよう。

そして今日、伏村は身近に、リアルに「男友達」ができたのである。
今後彼とどれほど仲良くなれるのか、そして更なるコミュニティを広げることができるのかは僕の性格と努力、そして運次第だが、今現在においては僕は充実した学校生活を送っていると言えよう。

そこで一つだけ、気付いたことがある。
今までは己の性自認を「男よりの中性」だと思っていたのだが、どうやらそんな僕にも微量ながらに「女性性」があるようだ。
それはもちろん中性を名乗る以上完全に男の感性ではないのだが、そんな僕でも我ながら可愛らしい部分があるな、と思ったのだ。
言い回しもそうだが全体的に相手に対する姿勢、態度が普段のそれとは違うような気がしたのである。

単純に定義つけるなら、
対女友達:より男性的
対男友達:やや女性的
といったところだろうか。


ここまで書いてふと、あることに気付いた。
相手の性別によってその態度に多少の変化が出るのは、生物としての無意識的に魅力的に見えるような振る舞いをしているのではないか、ということである。
あるいは、そのどちらにも完全に属することができない後ろめたさから、その対称となる性に自然となってしまうのか。
それまで僕はどちらかというならば男として振る舞うことが多かった。
それは今でもそうだしこれからもその基本は崩れないだろう。
だが、同世代の男子を前にして彼らと完全に同化できなかった今日を振り返ると、やはり僕は男女のどちらのカテゴリーにも属さない、あるいはその両方の面を持っている、ということなのだろう。

「そんなの誰でも両面性はある」
きっとこういったことに無頓着な人は言うだろう。
別に僕が特別異端である、と言いたい訳ではない。
単にここ最近みつけた自分の新たな一面をここに残しておきたいだけである。
ここで言いたいのは、それまで僕自身に「性」の概念などない、僕は男でも女でもないんだ、と自認していたが無意識のうちにどこかしら「性」を自覚するような反応が見られた、ということである。

今までの記事を読んでいた人なら気付いたかも知れない。
僕の一人称の変化に。

これは決して「ボクっ子」を気取っている、などではなくリアルで様々な人と話すときに割と言いやすい、「私」に次ぐ中性的、両性的な一人称であると判断したために「俺」から「僕」へシフトチェンジしただけである。
それまでの我を通したがる性格であった「俺」が、割とどちらにでも捉えられるような「僕」、そしてここ最近の割と中性的な物言いは、僕自身への社会的、精神的な負担がある程度緩和されたことで許容範囲が広がった、ということなんだと自分の中で解釈している。


今回の記事のタイトルである「壁を越えるもの」には主に「性というボーダーを越える」という意味合いが強い。
この記事から伏村 琉という生命体が一体どちらの性に属するのか、それは諸君の想像にお任せしたい。
そのいづれの解答も正しくもあり、同時にそうでないこともあるのだから。
「男」とか「女」とかそんな二つの概念を捨て去り、ありのままの「伏村」をこれからも見守っていただけると有り難い。

久々の更新にしてかなりの長文、そしていきなりの重い話失礼。
何はともあれ男でも女でもそうでなくても、より多くの人と良い縁があれば良いなと思う日々なのであった。