マキシマリストな祖母の話
今日は祖母の誕生日であり命日だ。
なので祖母の思い出話をしようと思う。
この記事は特に誰に読まれなくても良いと思っている。
これは最初の記事やこの記事でdisった祖母の名誉のために書いた記事だ。
なので正直ミニマリズムはあまり関係ない話になっている。そういうのだけ読みたい方は別の記事を読んで欲しい。
では、本題に移ろう。
祖母との思い出
父方の祖母は幼い頃からよくしてくれた。
まぁファーストコンタクトは、母の腕の中で眠る僕を無理やり引っぺがして曽祖母に抱かせて僕大泣き、という親からすればオロオロした展開だったそうだが(苦笑
それでも物心つく頃には何でも買ってくれて何処にでも連れて行ってくれる祖母が大好きだった。
今になってみれば「物質的な愛だなぁ」と思わなくもないが←おい
その当時から祖母の家は魔窟状態で、『劇的ビフォーアフター』が好きだった僕はいつか祖母の家を住みやすく綺麗にリフォームしたいなぁ、という夢を漠然と持っていた。
それでも祖母の家に遊びに行くことは好きだった。
幼少期の僕は栃木県に住んでいて、祖母は静岡県に住んでいた。
父が仕事の出張で静岡県に行くことがあると僕もついていき、祖母の家にお世話になっていた。
ある時、長期で祖母の家に住んだことがあった(と親に聞いた)
親が僕を迎えに祖母の家に来てみたら何だか知らない子供がいる…いやあれはLouではないか!?何だか表情も変わってて服も親のセンスとは違うものを着て、何より親に対してよそよそしさがある…と、まるで他人のようになったことがあったらしい。
僕がそれだけ祖母にべったりで親のことなど忘れるほど居心地が良かったのだろうか。魔窟だけど(苦笑
祖母の伝説
祖母はとても可愛がってくれたが、極端なところがある人だった。
当時の僕はお寿司のネタでイクラが大好物だった。
寿司屋に行けば必ずイクラを食べるほどには好きだった。
ある時一家+祖父母+曽祖母で寿司屋に寿司を食べに行った時のこと。
祖母が寿司を注文してくれたのだが、僕のお寿司は10貫ほどあって、全部イクラ。
端から端まで全部イクラ。
大人になった今考えてみれば有り得ない取り合わせだが、まぁ子供の頃の僕は大喜びで平らげたのであった。
この祖母にしてこの孫あり、である。
(まぁ今や毎日同じコーデで生活してるからある意味祖母の選択はミニマルとも言えなくもない…?)
祖母は不思議なことを言う人でもあった。
子供の頃の僕はとても華奢だった(今は…orz)
ある時雨が降っていたが僕はあまり濡れなかった。
単に小雨なだけだと思うが、祖母はこんな持論を立てた。
「それはねぇ、Louが細いから雨に当たらないんだよ」
んなわけあっか!!と子供ながらに思った瞬間だった。
同じく子供の時のこと。
僕は祖母の家に遊びに行ってた時、初めて行った近所の小学校(僕が通ってる小学校ではない)から家まで帰るのに若干迷子になったことがあった。
その時祖母は何やら忙しそうで僕とは離れていて、僕は一人で祖母宅へ帰ることにしたのだが、どうにも道がわからなかったのである。
まぁ何とか記憶をフル回転させて、後は勘で無事家に着いたのだが、その帰巣本能について祖母はこう言った。
「Louは戌年だから、犬は方向感覚が良いからそれで家に帰れたんだよ」
僕は当時はそれを「へーそうなのか」と間に受けていたが、大人になった今は思う「んなわけあっか!!ならば同級生皆迷子にならんのか!」と。
まだある。
成人式で前撮りした時のこと。
僕は結構背筋ピーンとしていて、そこをとても褒められたことがあった。
すると祖母「これはねぇ、モデルさんになりなってことなんだよ」と言う。
きっとその場にいた全員が思ったことだろう。
「んなわけあっか!!」
…さっきから祖母のおかしなエピソードばかり紹介しているが、実際祖母は可愛がってくれたがそんなことばかりをドヤ顔で言うお茶目(?)な人だった。
祖母との別れ
そんな祖母との別れは唐突にやってきた。
その日は僕は夜更かしをしていた。
日付が変わって17日になって少しして、「あ、祖母に誕生日のメールしなきゃな。朝になったら送るか」と思っていた矢先に、父からメールが入った。
「xx時に病院に運び込まれたけどダメだった。xx時、ご臨終」(詳しい時間は覚えてない、すまぬ)
「え…?」
祖母はついこの間まで会話をしてた。
背骨を追って入院してたが、それも退院して元気な姿をこの間見たばかりだった。
特に闘病などもしていなかった。
その祖母が、死んだ…?
最初は理解が追いつかなかった。
それもそうである。目の前で医者が「…ご臨終です」とかやるアレを見ずにただメールで告られただけなのだから。
一先ずその晩は寝て翌朝起きてメール欄を見ると、ある。どうやら夢ではなかったようだ。
祖母は本当に誕生日が命日となってしまった。
話を聞いたところによると、祖母もだいぶ苦労したようだった。
嫁いだは良いものの、義母(曽祖母)や義姉妹にいびられる日々だったらしい(まるでシンデレラだな)
息子(父)が生まれるも「実家に連れて帰るな」と言われ、祖母の親は孫(父)をあまり見ることはできなかったそうだ。
曽祖母が歩けなくなり介護が必要になると、祖母が全ての面倒を見ていた。
祖父について少しだけ
そして同時に祖母はずっと祖父の面倒も見ていた。
祖父がどんな人かと簡単に説明するならば、自己中心的なヒモ男(一応大工だが稼ぎは一般的な大工より低かったそうな)。
家計は国家公務員だった祖母の稼ぎで回っていた。
祖父に関してはマジで1つしか記憶がない。
それは祖母が寿司を取った時のこと。僕はワサビが好きだからサビありにして、祖父は辛いのがダメなのでサビ抜きにしたのだが、祖父は子供な僕が辛いのを食べられないと思ってか自分が無理してサビありを食べたと言うエピソードだ。
これしか祖父が孫を思ってしてくれたエピソードがないくらい、僕と祖父は接点がなかった、何なら祖父から避けられてもいた。
なので祖父への供述に愛がないのは勘弁願いたい。正直僕は(マキシマリストな)祖父母のようになりたくないと思っているが、なにより全てにおいて祖父のようになりたくないという気持ちが強いのだ。
ともあれ、祖母はまるで親のように祖父の面倒を長いこと見てきた。
老後になってからもそのスタンスは変わらなかった。
ただその祖母を祖父が愛していたかと言うと疑問が残る。何故ならまだ通夜もしないうちから遺品整理をボンボンとやりだし、挙げ句の果てに家のアルバムを捨てたからだ。
(祖父に一家への愛情はないのか?と疑いたくなる一件だ。確かに写真は残されても扱いに困るのだけど…)
そんな急ピッチで始まった遺品整理だが、その中で僕はあるものを発見した。
祖母が残してくれたもの
それは恐らく正月の餅の台紙であろう、紅白の正方形の紙だった。
そこにはこんな文面が書かれていた。
「Louちゃんへ
元気でいる?
学校になれた?生活になれた?
街になれたか
友達できた?お金はあるの?
今度いつ帰ってくるの?」
察しのいい方なら何か分かることだろう、この紙の最後にはこう書かれている。
「さだまさしの唄」(ご丁寧にさだまさしを丸で囲っている)
さだまさしの案山子を聞いて、感動したんだね。
僕のことを思い出して、いつか手紙にでも書こうかと思ってメモしておいたのだろう(一度もそんな手紙は貰わなかったが)
僕も小学生の頃は父の転勤でアメリカに行ったりと祖母とは遠く離れてた時期もあった。
恐らくはその頃に書いた紙だったのだろう。とんだタイムカプセルだ。
僕はこれをスキャンし、更にラミネート加工して今も部屋の片隅に飾ってある。
僕の大事な宝物の一つだ。
この記事を書くに至ったわけ
これまでの記事でもそうだし、今回の記事もそうだが僕は祖母に対してあまりいい印象を持っていないのは事実だ。この記事を書くときも「何か良いエピソードはないかー⁉︎いや、なんか面白系しか無い!!」となったものだ。
一時期は余りにも祖母をコケにしたような内容だから公開を止めようかとも思った。
しかし、紛れもなく僕の大事な家族の1人であり、祖母から受けた愛情に感謝もしている。
そんな祖母をただの「マキシマリスト婆さん」のイメージで終わらせたくなかった。
確かに僕が今こうしてミニマリストになったのは祖母の影響が大きいし、祖母を反面教師としているが、一方で祖母から受けた愛情のおかげで育ってきた部分もある。
冒頭でも書いたが、そんな祖母の名誉の為に今回の記事を書かせてもらった。
ただのマキシマリスト婆さんではなく、ちゃんと孫を可愛がってくれた大事な家族として。